まちづくり・社会教育活動の実践あれこれ

日々への感謝とアウトプット

読了「一人称単数」村上春樹

どんな本

人生にあるいくつかの大事な分岐点。そして私は今ここにいる。8作からなる短篇小説集。ぼくらの人生にはときとしてそういうことが持ち上がる。説明もつかないし筋も通らない、しかし心だけは深くかき乱されるような出来事が。(「クリーム」より)「一人称単数」の世界にようこそ。

 

感想

何だろう、読んだ面白さのベクトルが明らかに他の作家さんのものとは一線を画す。さすがは村上春樹と唸らざるを得ない。8作の中では特に「品川猿の告白」が秀逸で、日常の中の非日常感を違和感もなく楽しむことができる。さすがは村上春樹

 

表紙

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要約・メモ

 

(石のまくらに)

「ねえ、いっちゃうときに、ひょっとしてほかの男の人の名前を呼んじゃうかもしれないけど、それはかまわない?」と彼女は尋ねた。僕らは裸で布団の中にいた。

「人をすきになるというのは、医療保険のきかない精神の病にかかったみたいなものなの」と彼女は言った。壁に書かれた文字を読み上げるような平坦な声で。

この世界で僕の存在と彼女の存在とを結びつけているものんなんて、実際には何ひとつないというのに。たとえどこかの通りですれ違ったとしても、あるいは食堂のテーブルで隣り合わせたとしても、互いの顔を認める可能性なんてまったくないというのに。僕らは二本の線が交わり合うように、ある地点でいっときの出会いを持ち、そのまま離れていったのだ。

 

(クリーム)

フランス語に「クレム・ド・ラ・クレム」という表現があるが、知っているか?クリームの中のクリーム、とびっきり最良のものという意味や。人生のいちばん大事なエッセンスーそれが「クレム・ド・ラ・クレム」なんや。わかるか?

きみの頭はな、むずかしいことを考えるためにある。わからんことをわかるようにするためにある。それがそのまま人生のクリームになるんや。それ以外はな、みんなしょうもないつまらんことばっかりや。白髪の老人はそう言った。秋の終わりの曇った日曜日の午後、神戸の山の上で。ぼくはそのとき小さな赤い花束を手にしていた。そして今でもまだ、何かあるたびにぼくはその特別な円について、あるいはしょうもないつまらんことについて、そしてまた自分の中にあるはずの特別なクリームについて思いを巡らせ続けているのだ。

 

チャーリー・パーカー・プレイズ・ボサノヴァ

チャーリー・パーカーアントニオ・カルロス・ジョビン、いったいどこの誰に、そのような並外れた顔合わせを予測できただろう?ギターはジミー・レイニー、ピアノはジョビン、ベースはジミー・ギャリソン、ドラムズロイ・ヘインズ。名前を目にするだけで胸躍る、魅力的なリズム・セクションではないか。そしてもちろアルト・サックスはチャーリー・バード・パーカー。曲目を書こう。

A面

(1)コルコヴァド

(2)ワンス・アイ・ラヴド

(3)ジャスト・フレンド

(4)バイバイ・ブルーズ

B面

(1)アウト・オブ・ノーホエア

(2)ハウ・インセンシティヴ

(3)ワンス・アゲイン

(4)ジンジ

 

(ウィズ・ザ・ビートルズ With the Beatles

ポップ・ソングがいちばん深く、じわじわと自然に心に染みこむ時代が、その人の人生で最も幸福な時期だと主張する人もいる。たしかにそうかもしれない。あるいはそうではないかもしれない。ポップ・ソングは結局のところ、ただのポップ・ソングでしかないのかもしれない。そして僕らの人生なんて結局のところ、ただの粉飾された消耗品に過ぎないのかもしれない。

顔を合わせるたびに彼女は、いつも奇妙に感情を欠いた目でー冷蔵庫の奥に長いあいだ放置されていた魚の干物がまだ食べられるかどうかを精査するような目でー僕を見た。そしてその目つきは僕をいつも、何かしらやましい気持ちにさせた。

そこには何かをー僕らが生きていくという行為に含まれた意味らしきものをー示唆するものがあった。でもそれは結局のところ、偶然によってたまたま実現されたただの示唆に過ぎない。それを越えて我々二人を有機的に結び合わせるような要素は、そこにはなかった。

 

(「ヤクルト・スワローズ詩集」)

僕はヤクルトスワローズのファンだ。熱狂的・献身的なファンとまでは言えないけれど、まずまず忠実なファンと言っていいだろう。

そう、人生は勝つことより、負けることの方が数多いのだ。そして人生の本当の知恵は「どのように相手に勝つか」よりはむしろ「どのようにうまく負けるか」というところから育っていく。

僕も小説を書いていて、彼と同じような気持ちを味わうことがしばしばある。そして世界中の人々に向かって、片端から謝りたくなってしまう。「すみません、あの、これ黒ビールなんですが」と。

 

(謝肉祭(Carnaval))

F*はある種、特別な吸引力のようなものを持ち合わせていた。そしてそこにはー彼女の特異なまでの容貌にはー何かしら人の心に食い込んでくる力があった。それはまた彼女に対する僕の好奇心をかき立てた力でもあった。そして彼女のそのような特殊な吸引力と、若い夫のモデル並みに端正なルックスがひとつに組み合わされれば、あるいはそこで多くのことが可能になるかもしれない。人々はそのような合成物に抗いがたく引き寄せられていくかもしれない。

それらの記憶はあるとき、おそらくは遠く長い通路を抜けて、僕のもとを訪れる。そして僕の心を不思議なほどの強さで揺さぶることになる。森の木の葉を巻き上げ、薄の野原を一様にひれ伏させ、家々の扉を激しく叩いてまわる、秋の終わりの夜の風のように。

 

品川猿の告白)

僕がその年老いた猿に出会ったのは、群馬県M*温泉の小さな旅館だった。五年ばかり前のことだ。鄙びた、というか老朽化してほとんど傾きかけたその旅館に宿泊したのは、たまたまの成り行きによるものだった。

猿がガラス戸をがらがらと横に開けて風呂場に入ってきたのは、僕が三度目に湯につかっているときだった。その猿は低い声で「失礼します」と言って入ってきた。それが猿であることに気づくまでにしばらく時間がかかった。

「背中をお流ししましょうか?」と猿はやはり低い声で僕に尋ねた。「ありがとう」と僕は言った。

「たぶん信じていただけないだろうと思うのですが、あるときから、私は好きになった女性の名前を盗むようになったのです」「名前を盗む?」

 

(一人称単数)

ときどき、とくにそんな必要もないのに、自ら進んでスーツを着てネクタイを結んでしまうことがある。なんとなくそれらの衣服に対して「申し訳ない」という気持ちが湧いてきて、試しにちょっと着てみる。で、実際にそういう格好をしてみると、せっかくこうしてスーツを着たんだから、すぐに脱いでしまうのもつまらないし、この格好で少し外に出てみようかという気持ちになる。

何をするともなく部屋をうろうろしているうちに、そうだ、たまにはスーツでも着てみようかとおいう気持ちになった。数年前に買ったポール・スミスのダークブルーのスーツをベッドの上に広げ、それに合わせてネクタイとシャツを選んだ。

そこには微妙なずれの意識があった。自分というコンテントが、今ある容れ物にうまく合っていない、あるいはそこにあるべき整合性が、どこかの時点で損なわれてしまったという感覚だ。ときどきそういうことがある。

そして私は今ここにいる。ここにこうして、一人称単数の私として存在する。もしひとつでも違う方向を選んでいたら、この私はたぶんここにいなかったはずだ。でもこの鏡に映っているのはいったい誰なのだろう。