まちづくり・社会教育活動の実践あれこれ

日々への感謝とアウトプット

読了「人間関係ってどういう関係?」平尾昌宏

どんな本

「本当の友だちだと思ってたのに」「ただの知り合いです」「恋人と友人って何が違うの?」「親子はこうでなければならない」……身近な関係に悩むのはなぜ? 家族、恋人、友人――いちばんすぐそばにあり、実はいちばんつかみどころのない「身近な関係」。切り捨てることも、手放しに肯定することも難しいその関係は私たちをいつだって悩ませる……。人と人のつながりを一から捉えなおすことで、息苦しさとさみしさの狭間に立ち位置を見つける本。

 

感想

大学の講義という感じの文体がとても良い。学生時代を思い出した。人間関係というあえて言葉で言い表しにくいものを言葉にし体系化していく、著者の優れた思考力が感じ取れた。デューク風に感想を一言で。人間って面白っ!!

 

表紙

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要約・メモ

(まえがき)

  • 人間一人ひとりを取り出すと「個人」、でそういうバラバラな個人が集まっているのが「社会」。そして、その中間とでも言えばいいか、社会でもない、個人でもないという、いわば第三の領域がある。家族、恋人、友人など、そういう身近な関係。これがこの本のテーマ。

 

(序章 まえがき その二)

  • 現代の日本の大きな問題は少子化。少なくともその一つは、親子や夫婦その他、つまり身近な関係をどう捉えたらいいのか、という点にある。
  • 我々の生活のかなりの部分は身近な関係でできている。それなのにそれについてあまり考えていない。
  • どうも社会は発展するに従って、身近な関係を縮小する方向へ進んできたようにみえる。
  • かつては家庭の中でまかなっていたものを現代になるにつれ社会に外注するように。
  • 結果、現代は昔に比べてそうとう自由になり、余裕が出来た。
  • 問題:身近な関係は必要か?

 

(第1章 身近な関係とはどんなものか)

①人間の三つのあり方

  • この本で扱う範囲、ここで考える身近な人間関係、三本立て。
  • まず個人というのが単位、その個人と別な個人とが関係を作る。
  • 作り方に二種類あって、一つは身近な関係、もう一つが身近でない関係(社会的な関係)。

②社会と個人のあいだ

  • 個人と集団、集団は社会とは全然違う。
  • 会社をはじめとした集団も実は個人と社会の中間。広い意味での身近な関係に入る。

③身近な関係の特徴(相互性と持続性)

  • 一方的に知っている場合は身近な関係ではない。お互いに知っているが基本。
  • お金でやり取りする他人の関係が社会。それに対して、長く続く関係が身近な関係。
  • 身近な関係は、自分=個人の中にだけあるような一方的なものではない、相互的なもの。さらにお互いにという一定の時間続くもの、持続的なもの

 

(第2章 身近な関係はどんなものではないか)

①感情や気持ちではなく

  • 感情だけで身近な関係が捉えられるかと言えば、必ずしもそうではない。
  • もし「愛とは感情である」と考えたとすると、ストーカーの歪んだ愛、単なる一方的な愛情も愛になるし、被害者の関係も身近な関係に入れなくてはならない。
  • むしろ大事なのは相互的な関係。

②制度や仕組みでもなく

  • 契約というのは、お互いに他人で相手のことが完全に信用できないからこそ、社会的な関係の中だから必要になるもの。
  • 契約をはじめとする手続きや仕組み、制度も、身近な関係がどう成り立っているかを説明することはできない。

③距離でもなく

  • 社会の中では人びとは基本、他人同士。お互いにぶつからないように気をつけなければいけない。そのベースになるのが「離れる」こと。
  • そうすると問題は「近いか遠いか」ということになる?
  • 距離は測れるもの。量、客観的なもの。技術により操作できる。
  • 人との距離とは言うけど、実際にはきっちり計れるような距離とは違う。

④種類も超えて

  • 血のつながりで親子になっている場合は多い、しかし血のつながり=親子とはとうてい言えない。
  • 町内会を取っても、ここは血縁が強いとかこの地方では地縁が強いとか、その基盤を一つひとつ確定していくのも難しい。
  • 私がこの本を「友情について」「恋愛論」といったタイトルにしなかった理由もここにある。
  • 「私と彼はいったい友達なんだろうか」→「はいそうです」というようなものではない。
  • 友達、友人、恋人、パートナーという言葉は役に立たない。だから取り除いた方がいい。
  • 本人達の関係を表すものではなく、本人達の関係を外から見て、他の人たちが付けた名前ではないか。だから役に立たない。
  • そうではなく、身近な関係を丸ごと、一網打尽にできるような整理の仕方を考えたい。距離(量)でも種類(質)でもなく関係の基盤、それぞれの関係がどのように成り立っているかという関係の基盤、そうしたものを考えたい
  • いわゆる「結婚」「夫婦」というのは、身近な関係であると同時に、それを社会的に認められるようにしたもの。だからここには、身近な関係と社会的な関係が重なって表れてきている。

 

(第3章 タテとヨコ)

①タテかヨコか

  • 抽象的に考える=具体的な細かいところを取り除いて、ものすごくざっくり整理するということ。
  • 町内会長同士はヨコ並びなんだけど、中に自治連合会の会長さんがいて、連合会長の上にも人がいて、区単位とか市単位とか都道府県単位とか、いわばタテに階段状になっている。
  • 町内会には身近な人間関係の基本がすごくよく出ている
  • ルースベネディクト、菊と刀。欧米は罪の文化、日本は恥の文化。
  • キリスト教下では神様という上位の存在で私たち人間を下の者を見ている。タテの関係。
  • 日本にはそういう宗教がなく、人々の間での水平な関係が強く働き、恥ずかしいことをしないようにする、ヨコの関係。
  • 身近な関係はどのようにできているか、それによりどんな関係が区別できるか。それはタテとヨコ。
  • 例えば、連れ合いと一緒に暮らす、ヨコの関係。
  • 私と学生さんの関係は、上下関係というタテの関係。

②タテとヨコの違い

  • タテとヨコとは、つまり対等と対等でないのとだ、というのは確かにそうだが、まだそれでけではうまく使えない。
  • 一般的に考えて、人間に上下関係なんかない方、ヨコの方がいい。しかし、もしタテの関係になっているのだったら、何かの必要性があるのではないか。
  • 必要かそうでないか。タテの関係は必要と関わりがある

③「タテとヨコ」の使い方

  • ある意味抽象的だからこそ役立つ。

 

(第4章 共同と相補)

①違うと同じ

  • そもそも関係というのは、同じか、違うかという二種類しかない。
  • 人間はみな同じ、同等と見なす、これが社会の基盤。全員共通に権利を持つ。基本的人権というやつ。これは社会という観点からの捉え方。
  • 個人一人ひとりに焦点を合わせるてみると全然違う。性格や考え、生まれ育ちなど。
  • 人間には二つの側面、同じと違う。全ての人が同じ=社会、一人ひとりそれぞれ違う=個人
  • 第三の場合、全ての人ではない、何人かの人は共通だということ。それが人々を結びつける絆となって、身近な関係を作る。

②共同性

  • 身近な関係にもいろいろある。だけどそれらはみな、「何かの共通点でつながっている、同じところがあって仲間になっている」というもの。

③相補性

  • 重なり合う関係。同郷とサッカー好き、という二つの同じが重なっていて、だから親しくしている。
  • 同じ点、共通点がいくつか重なり合って、だから絆が強くなったりする。
  • 違うからこそ惹かれ合う。男女の恋愛。お互いに補い合う「相補」。違うからこそ結びつく関係=相補性と呼びましょう。

④共同性と相補性の違い

  • 私はサッカーが好きで、上田君もサッカーが好き。内田君も実はサッカーが好きだった。
  • それぞれ違いがあっても、サッカー好きという点では仲間だよね、共同性は非常に広がりを持つ。
  • それに対し相補性は、むしろ閉じた関係を作りやすい、集中しやすい。友達はたくさんだけど、恋人は一人。
  • 広がりのある共同性はより社会に近く、閉じる傾向のある相補性はより個人的なものに見える。
  • 自分と相補的な関係になれる人はとても貴重。相補性はその分だけ絆が強くなる。

 

(第5章 パターンをかけあわせる)

①親子の問題

  • 親子関係は相補型に分類できる。親と子という違うもの同士が結びついている。
  • 親子は同じ家族の一員なのだから共同性だと思う、という人もいる。しかし、全ての親子に血のつながりがあるわけではない。
  • 同じ家族の一員だから親子ではなく、親子であるから同じ家族の一員である。
  • 親子関係が相補型というのがいまいち腑に落ちない別の理由。
  • 恋人、夫婦は基本的に相補型ではあっても、相補性は恋愛や夫婦関係とは違う。親友も含め違っているからこそ結びつく、のが相補性。こっちが相補性の本体。親子も相補性の一種。
  • 同じ相補性でも、細かく見れば、夫婦や恋人のようなタイプと親子のようなタイプの二種類がある。
  • 師匠と弟子、先生と生徒、これらも違ったものの結びつきだから相補型。だがそれと同時に、夫婦、恋人、親友のようなタイプとは違う。
  • 「親子、師弟」型は上下関係。「夫婦、恋人、親友」型は上下ではなく対等。タテとヨコ。
  • 身近な関係は三種に分類:1親子、師弟関係など(タテの相補性)、2夫婦、恋人、親友(ヨコの相補性)、3友達、サークルなど(共同性)。

②2×2=4

  • 第四のパターン。例1「部活の先輩と後輩」、タテの共同性に当てはまる。例2「会社の上司と部下」、タテの関係の仲間。一緒にお金儲けをする共通の目的。

③四つのパターンの使い方

  • ヨコの相補性①夫婦、恋人、親友、タテの相補性②親子、師弟関係、タテの共同性③先輩後輩、上司部下、ヨコの共同性④級友、サークル

 

(第6章 身近な関係のウチとソト)

①社会や個人をどう考えるか

  • 人間のあり方には、身近な関係のほかに、社会と個人というのがあった。
  • そうすると、四つのパターンと社会との関係、四つのパターンとの個人の関係、というように八つの場合を考える必要
  • タテの共同性と社会。何か共通の目的のためにのタテ関係。例えば会社。
  • 会社の中の上司と部下の関係は身近な関係の代表。一方、会社と社員が雇用契約、ここに社会的な関係。会社での関係は身近な関係の一種ではあるが、社会に近いと言える。
  • ヨコの相補性と社会。身近な関係の基本は一方的ではなくお互いに、相互性。だが身近でなくてもあり得る。売買はお金を払う、受け取るで相互的関係。
  • 相互性は身近なものではなかった。つまり経済的な活動は社会的な行い。

②兄弟の問題、夫婦の問題

  • 夫と妻の関係があり、親子関係がある。この親子関係は、母と子、父と子、の二つに分けられる。
  • これを言い表すと、夫と妻の関係は基本的にヨコの相補性、父と子、母と子の関係はタテの相補性、だからこの三人家族はヨコの相補性と二つのタテの相補性からなる。
  • では子どもが二人いる場合、兄弟はどの関係パターンか。
  • 雑に「夫婦」と呼ばれるこの二人の関係も、クローズアップして見ていくと、その中にヨコの共同性、ヨコの相補性、社会的な関係と、幾つもの関係が織り込まれている。
  • 関係というのは目に見えるものじゃないから、正確に捉えるのは難しい。でも、だからこそ身近な関係について考えていって、名前をつけて、それで摑まえるしかない。ここで書いていることが万全とは言わない。しかし身近な関係をより正確に理解する試みは必要だし、少しそれができているのでは。

③まえがきの問いに答える

  • 私と方便さんの関係はヨコの相補性だった。
  • 図書館の二人、吉田君と小島さん。ヨコの相補性。図書館の係の人と吉田君、小島さんはお互いに知らない同士、社会的な関係。そこに私たちは恋人ですという二人だけの関係を持ち出しても意味がない。二人はヨコの相補性という理解は、当人たち二人にとっては大事だが、図書館の人にとっては別にどうでもいい。二人の関係性を第三者にも分かるように、社会的な観点からみた場合にどう見えるのかを説明しなければならない。そうすると便利な言葉は「婚約者です」あたりか。

 

(第7章 あらためて、身近な関係は必要か)

①身近な関係は必要か?

  • 身近な関係として一括りにして、「必要だ・必要ない」と単純に答えるのでなく、四つの関係パターンを踏まえ、どのパターンが必要で、どのパターンが必ずしも必要でないのかをはっきりさせていけばいい。
  • 親子関係のようなタテの相補性はどうしったって必要。そもそも我々はどこかから生まれないといけないし、育てられなければならない。
  • 生まれる、育つという段階では、大人がいなくてはならない。だから身近な関係は必要ということになる。
  • それに対して上司と部下のようなタテの共同性は、生きるのにどうしても必要というよりは、何か限定された目的のために必要。
  • 友達なんかのヨコの共同性は、生活する、何かの活動する、事業を運営するのに必要とはちょっと違う。
  • 同じく、ヨコの相補性も、恋人や配偶者がいない人も多いわけで、必ずしも必要ではない。

②どういう意味で必要か?

  • 生まれ、育ち、生きるためにはタテの相補性と社会とが全ての人にとって必要。あとは全員ではないけどタテの共同性は目的によって必要ということがわかった。そして、ヨコの共同性やヨコの相補性は、人によって必要になり、また可能性を考えると、なおさら必要であることがわかった。

③必要かどうかという問題のその先

  • 私たちにとって「幸せ」にはどうも二種類あるらしい。「自分の好きなことができる」こと、「身近な関係の中で生きる」こと
  • 身近な関係は必要か、という問題を考えて行って、やっぱり必要だということを知った。しかしさらに今わかったことは、「身近な関係には、必要というより、我々の幸せに関わるものがある」ということ。
  • 私たちは必要だけで生きているわけではない、必要のためだけに生きているのではない。

 

(結びに代えて・人は変わる、関係も変わる)

  • この本では関係を、関係のあり方の基本的な形、パターンという観点から見てきた。だが、人間の関係は静止したものではなく、大きく変化するものだと考えるべき。さらに変化するとともに、その関係を作っている人間の方も変化してくる。おそらく変化には長い時間がかかる。
  • 私たち人間のさまざまな関係の中には、関係が変化したり、我々自身が変化したり「歴史」みたいなものが織り込まれている。
  • 我々は一人ひとりの人を「かけがえのない存在」と言ったりする。実は、それはその人がかけがえないということとともに、その人が他の人と作り出す関係、その歴史こそがかけがえのないものなのかもしれない
  • 多くの本には「まずは個人が確立していて、そういう自立した個人がお互いに関係を作るのが良い」と書いてある。それは理想だが、最初からそれができるとは限らない。人間が最初から完全に自立した個人である、というのは非現実的ではないか。
  • ヨコの共同性やヨコの相補性、そして何よりタテの相補性などを通して、人間は人間として成り立ってくる。人間が関係を作るのだが、実はそれは関係が人間を作るということと同時進行ではないだろうか。だから人間は面白いと思う

 

(あとがき)

  • 「子どもを産む、育てる」のところでも出てきた通り、この本では「人と人との関係は、物との関係とは違う」ということが繰り返された。
  • 実際にどう違うのか。それは「人は生きている」ということ。逆に言えば、物は生きていない。
  • だから物は、自分が作ったり、自分のために利用したり、壊したりもできる。
  • だけど人は生きているので、自分の思い通りにはならない。そういう思い通りにならないのが人で、そういう人との関係がとても大事
  • 人であるということは、自分とは違うということ。人を自分のものにすることはできない。そこに成り立つのは、操作、所有ではなく、関係ということ。
  • だから人と人との関係は難しい。身近な関係というのはそういういうもの、自分の思い通りにならないもの。
  • 人との関係は「私」にとって意味がある。「私」は関係を作ったり利用したりするのではなく、そういう不思議な関係を生き、あるいはそうした関係に作られる。
  • 私はこの本を読み返しながら、そうしたことを読み取ったり考えたりしました。

 

We Believe No.729

今月号が届きました。いつもありがとうございます。

 

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島鉄平(盆栽プロデューサー)×小西毅(会頭)

  • 弊社の理念は日本らしさ、礼儀礼節を重んじるという考え方を大切にしている。自分からするのが挨拶、挨拶されて変えすのはただの返事。
  • 入れ墨を出して盆栽を持つ姿を撮った写真をインスタグラムに投稿。海外から大きな反応。
  • みんなが盆栽を愛するようになれば、世界が平和になると信じている。そういう究極的なところにもつなげたい。
  • シンプルにかっこいいのか、カッコよくないのかで答えを決めていく。
  • 伝統文化は革新が必要だと思う。長い歴史の中でどこかの時点で革新者がいたはず。新風を吹き起こした人々がいたから、伝統がアップデートされてきた。海外のアーティストとコラボするのもひとつの革新。

 

読了「博士の愛した数式」小川洋子

どんな本

ぼくの記憶は80分しかもたない。博士の背広の袖には、そう書かれた古びたメモが留められていた。記憶力を失った博士にとって、私は常に新しい家政婦。博士は初対面の私に靴のサイズや誕生日を尋ねた。数字が博士の言葉だった。やがて私の10歳の息子が加わり、ぎこちない日々は驚きと歓びに満ちたものに変わった。あまりに悲しく暖かい、奇跡の愛の物語。第1回本屋大賞受賞。

 

感想

有名だけど縁がなくスルーしてきた本著だが、書店で改めてプッシュされていて購入に至りついに購読。初代本屋大賞受賞作、後の大賞作は本書の影響なしではあり得ない。数学をテーマに本を書きたかったというあとがきのエピソードも必見の価値あり。

 

表紙

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要約・メモ

  • 数字は相手と握手するために差し出す右手であり、同時に自分の身を保護するオーバーでもあった。上から触っても身体のラインがたどれないくらい分厚くて重く、誰一人脱がせることの不可能なオーバーだった。それさえ着ていれば、彼は取り敢えず自分の居場所を確保できた。
  • 本当に正しい証明は、一分の隙もない完全な強固さとしなやかさが、矛盾せず調和しているものなのだ。たとえ間違ってはいなくても、うるさくて汚くて癇に障る証明はいくらでもある。分かるかい?なぜ星が美しいか、誰も説明できないのと同じように、数学の美を表現するのも困難だがね。
  • 私たちはただの広告の紙に、いつまでも視線を落としていた。瞬く星を結んで夜空に星座を描くように、博士の書いた数字が、淀みない一つの流れとなって巡っている様を目で追い掛けていた。
  • 散髪屋で見せた緊張は消え失せていた。枯れかけた小枝は、博士の意志を休みなく地面に刻み付けていった。いつしか二人の足元には、数式で編まれたレース模様が広がっていた。
  • 28=1+2+4+7+14と書いた。完全数だ。
  • 夜の風は心地よく、お腹は一杯で、ルートの左手は大丈夫だった。もうそれだけで、十分満足だった。博士と私の靴音は重なり合い、ルートの運動靴はプラプラ揺れていた
  • 何であれ雇い主のものをこっそり覗くのは、家政婦として最も恥ずべき行為だと承知した上で、それでも私がノートをめくってしまったのは、それがとても美しかったからだ。
  • 私はページを撫でた。博士の書き記した数式が指先に触れるのを感じた。数式たちが連なり合い、一本の鎖となって足元に長く垂れ下がっていた。私は一段一段、鎖を降りていゆく。風景は消え去り、光は射さず、音さえ届かないが怖くなどない。博士の示した道標は、なにものにも侵されない永遠の正しさを備えていると、よく知っているから。
  • やがてすすり泣きが聞こえてきた。最初それが彼の口から聞こえているとは気づかず、部屋のどこかで壊れたオルゴールが鳴っているのかと錯覚したほどだった。ルートが手を切った時耳にしたのとは種類の違う、誰のためでもない、ただ自分一人きりのための、ひっそりとした泣き声だった。
  • 彼が私だけに教えてくれた数字の魅力たちが、色あせてゆくような気がした。昨日も今日も、世界に何が起ころうと変わらず、数字はただそこに、あり続けているだけなのに。
  • 記憶の中では、博士とルートと私三人だけしか居ないはずの場所に、目新しい人物が割り込んでいたせいで、何とも言えず空気がぎくしゃくしていた。
  • 博士との短い付き合いの中で、知らず知らずのうち、私は数字や記号に対し、音楽や物語に対するのと同じような想像力を働かせるようになっていた。そのごく短い数式には、見捨てておけない重量感があった
  • 蟻がわがまま放題に行列を作っているような、赤ん坊が不恰好に積み木を重ねたような、偶然で無秩序で取り留めのない数字の羅列が、実は筋道の通った意志を持っているのだから、手に負えない。
  • 彼はルートを素数と同じように扱った素数がすべての自然数を成り立たせる素になっっているように、子供を自分たち大人にとって必要不可欠な原子と考えた。自分がここに存在できるのは、子供たちのおかげだと信じていた。

 

 

読了「眠れなくなるほど面白い睡眠の話」西野精治

どんな本

睡眠の常識が変わる!今晩からできる睡眠革命。日本人は世界一寝ていない⁉︎最先端の睡眠法で眠りを変えよう。睡眠が変われば、人生が変わる!

 

感想

自分自身、寝付きは良く早寝早起きも毎日できているが、いかんせん睡眠時間が平均3〜4時間と少ない。あらためて睡眠の重要性とその効果を再認識できた上、最新の睡眠にまつわる知識を得ることができた。第3章の黄金の90分を手に入れる方法は必見の価値あり。

 

表紙

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要約・メモ

(はじめに)

  • 睡眠は生きていくうえで、基本的でもっとも重要な生理現象。
  • 今日からぐっすり睡眠を目指し、心地よい眠りと覚醒を手に入れよう!

 

(第1章 つい話したくなる睡眠の新常識)

  • 睡眠不足が免疫力を低下させ感染症にかかりやすくする。
  • 予防接種をしても、睡眠が十分でないと抗体反応が弱く、その効果が認められない。
  • ホルモンバランスの異常で食欲が変わる。食欲が抑えられなくなる(グレリン増加、レプチン減少)。
  • 都会にいる人の睡眠時間比較、睡眠時間6時間未満が東京に多い。
  • 「90分の倍数で起きれば、目覚めが良い」という説は個人差あり。
  • ノンレム睡眠(深い眠り)とレム睡眠(浅い)、レム睡眠のときに起きると目覚め良い。
  • 10時間睡眠でスポーツの成績UP。パフォーマンス向上のみならず、負傷者も大幅に減少。
  • 睡眠時間は短くても長くても健康を損なうリスクが上がる。
  • 長時間の睡眠は脳卒中の発症リスクを高める。長さよりもを高めて。
  • 1日3〜4時間睡眠のショートスリーパーは遺伝子で決まる特異体質。(ナポレオンやエジソン
  • 蓄積された睡眠負債は休日の寝溜めでは返せない。睡眠貯金もできない。
  • 本人も気づいていない「瞬間的な居眠り(マイクロスリープ)」がある。
  • 睡眠不足の運転は飲酒運転より危険!
  • 午後の眠気(アフタヌーンディップ)はランチを抜いても撃退できない。
  • 5〜15分程度が、自然な入眠潜時。眠れないと意識せず無理に眠ろうとしないこと。
  • 体温のリズムで朝型・夜型が決まる。朝型の人は朝早くから体温上昇が始まる。
  • 起きたい時間を意識して眠ると起きれる。コルチゾールの分泌が起こる。

 

(第2章 ここまでわかった!睡眠の科学的メカニズム)

  • 深いノンレム睡眠は脳の休息時間。レム睡眠中は完全な電源オフではなくアイドリングモード。
  • 睡眠の役割:①脳を休ませ体をメンテナンス、②自律神経やホルモンバランスを整える、③記憶を整理して定着、④免疫力を上げて抵抗力を高める、⑤脳の老廃物を除去。
  • 交感神経(活動モード)と副交感神経(リラックスモード)が1日のなかで入れ替わり働く。
  • 成長ホルモンの分泌は最初のノンレム睡眠70〜80%が分泌。
  • 成長ホルモンが出ないと、コレステロール増、骨が弱体、筋肉量減、体力減、肌荒れなど。
  • 新しい記憶は海馬で整理され、大脳皮質で古い記憶となり定着。眠り始めの深いノンレム睡眠のとき。スポーツ技術の習得など体で覚える記憶は浅いレム睡眠で定着。
  • 記憶の転送作業中に脳内で映し出されるものが「」ではないかとの説も。
  • 風邪を引くと熱が出て眠くなるのは、体の免疫機能ががんばっている証拠。サイトカインという生理活性物質が、指令を出してサポート。
  • 人の体を構成する37兆個もの細胞はそれぞれ代謝を行い、老廃物を発生、リンパ組織などを通して細胞外へ排出。
  • ところが脳にはリンパ組織がない。かわりに、脳の老廃物は脳脊髄液という液体で洗い流されている。グリンパティックシステムという。
  • 睡眠不足が積み重なって睡眠負債におちいる。その自覚がない。
  • 慢性的な寝不足は、徹夜をしたときと同じようなパフォーマンス低下をまねく。睡眠不足の自覚がない。
  • ノンレム睡眠レム睡眠を4〜5回繰り返す。ノンレム睡眠は次第に浅くレム睡眠は徐々に長くなる。
  • 一番大切なのは入眠から最初の90分。ここでしっかり眠れると質が向上。黄金の90分と呼ぶ。2回目以降のノンレム睡眠が1回目より深くなることはない。
  • 人の概日リズムは地球の自転に伴い決まっている1日よりも長い約24.2時間なので、放っておくと少しずつ後ろにずれていく。それを修正してくれるのが光。
  • 朝の光が有効で、体内時計がリセットされ、地球の時間と体内時計のずれをなくしてくれる。
  • 眠れないだけではなく、眠くて仕方ないのも睡眠障害。不眠があるから過眠がある。過眠があっても不眠になる。
  • 睡眠障害で近年増えているのが21世紀の現代病ともいわれる「睡眠時無呼吸症候群SAS」。
  • 無呼吸が起こるたびに足りない酸素をとりこもうとして覚醒を繰り返し、慢性的な睡眠不足状態におちいる。結果、日中の眠気が強まり判断力や集中力を低下。
  • 長く患うと、約8年間で約4割の人が死亡するという衝撃的データもある。
  • 睡眠不足は万病のもと。肥満や生活習慣病、がんの発症リスクを高める。
  • 夜間シフトの多い看護師と日中勤務のみの看護師で、2型糖尿病発症率を比較すると20%高い。さらに年数に比例してリスク向上。
  • 睡眠不足はイライラを増やしてハッピーを消す。感情が暴走しないようにブレーキをかける前帯状皮質扁桃体がある。睡眠不足状態ではそれらが働かない。
  • 寝る子は脳も育つ、脳内の神経回路(シナプス)をどんどん作り、不要なものは除去され発達していく。
  • 睡眠が足りない子どもたちに発達障害の注意欠陥多動物性障害(ADHD)や学習障害(LD)の子どもと同じような症状がみられるケースも。
  • 近年のインターネットの影響からも子どもの睡眠不足が問題に。子どもの睡眠を守るのも、今の社会課題
  • 高齢者は早寝早起きになりがち。加齢と共に体内時計が変化。睡眠にかかわる生体機能のリズムが前倒しし早い方にずれてくる。
  • 短時間睡眠で昼寝の習慣がない人ほど、認知症の発症リスクが高い調査結果。昼寝をして睡眠時間の確保を。

 

(第3章 今夜からぐっすり「黄金の90分」の質を高める極意)

  • 夜、眠気がやってきたタイミングで寝る。徹夜せざるを得ないときは、最初の眠気で寝て黄金の90分が過ぎた頃に起きる。最低限必要な睡眠は確保できる。
  • ふだん寝る時間の2時間前から就寝直前までがもっとも眠りにくい。睡眠禁止ゾーン(フォビドンゾーン)がある。
  • 寝る力と起きる力はセット、十分に眠れていると14〜16時間は活動可能。オレキシンという神経伝達物質が活躍。
  • 体の内部の温度(深部体温)と体の表面の温度(皮膚温度)は上がったり下がったりそれぞれが逆に動く。
  • 日中の最大差は約2.0℃までいく。両者の温度差が縮まると眠気が増し眠りやすくなる。
  • 睡眠への体温スイッチ①:その差を縮めるのにもっとも有効な方法が入浴。就寝の90分前に湯船につかり、深部体温を上げておくと、眠る頃には深部体温が下がってきてスムーズに入眠。
  • 睡眠への体温スイッチ②:就寝前の足湯。30〜60分前、40〜42℃のお湯で、10〜15分つかる。ラベンダーなど香りを使うのも○。
  • 睡眠への体温スイッチ③:就寝前のくつ下。寝る1〜2時間前から履く。ゆったりサイズのくつ下で、ウールなど天然素材が良い。ストレッチや足のマッサージもすると血行促進されて良い。
  • 睡眠への脳スイッチ①ポジティブルーティン。眠る前の脳には余計なことを考えさせない。脳がモノトナス(単調な状況)であることに退屈して眠くなる。
  • 睡眠への脳スイッチ②Sheepを数える。モノトナスの例:難しい本、クラシック音楽、変わらない風景、古典芸能、静かな映画、炎のゆらめき。
  • 睡眠への脳スイッチ③1/fゆらぎ。予測できない不規則なゆらぎ。キャンドル、クラシック音楽、虫の声、小鳥のさえずり、波の音、木漏れ日、小川のせせらぎ。
  • 覚醒への光スイッチ:朝日(ブルーライト)を浴びる。活動モードへ切り替え。数分間でOK。
  • 覚醒への体温スイッチ:深部体温と皮膚温度の差を広げるのがカギ。水で手や顔を洗う。冷たい水仕事、朝ごはんを食べる、あたたかい飲み物を飲む。
  • 覚醒への感覚刺激スイッチ:目や耳、皮膚に目覚めの刺激を与える。裸足で冷たい床の上を歩く、カーテンを開けて朝日を浴びる、音楽やラジオをかける。
  • 覚醒への噛むスイッチ:よく噛んで朝食をとることも効果的。噛むことは記憶にも影響。よく噛んだマウスの脳で、海馬で新たな試験細胞が生まれる神経新生がみられた。
  • よりよい睡眠習慣のカギは起きる時間。毎朝起きる時間を一定にすること。安定した体内時計リズムの保持。

 

(第4章・スタンフォードに学ぶお悩み別睡眠アドバイス

  • なかなか寝付けない▶︎芳香浴で眠りの空間を。リラックスする香りが眠りの準備を整える。ラベンダーの香りリラックス効果。
  • すぐに眠りたい▶︎少量のお酒を。アルコールには脳の興奮をしずめる効果。途中で起きたり早く目覚めたりは飲み過ぎ。寝る直前、度数の強いお酒を、ほんの少しだけがポイント。
  • 真っ暗だと眠れない▶︎暖色系の明かりは眠りのかけ橋。暖色系の赤みがかったキャンドルや間接照明が良い。
  • 眠っても疲れが取れない▶︎通気性の良い寝具を。敷布団に最適な高反発の新素材マットレス
  • もっと脳を休ませたい▶︎熱のこもらない枕が正解。効率よく頭を冷やす。ダニやカビ、匂いは快眠の大敵。
  • 二度寝してしまう▶︎2段階アラームで爽やかな朝に。20分間隔のアラームで起床ウィンドウ(余白)をつくる。間隔の短いスヌーズ機能は避ける。
  • 日中すっきり過ごしたい▶︎1杯のコーヒーで覚醒をワンランクアップ。眠気を促すアデノシンをカフェインが妨害。代謝UPや血行促進効果もある。
  • 眠りが浅くて寝足りない▶︎運動習慣は快眠生活への第一歩。睡眠の質が改善。運動で体温変動や免疫細胞から分泌されるタンパク質、サイトカインの生産。ジョギングやウォーキングなどの有酸素運動を週2〜3回
  • 食事から睡眠を改善したい▶︎冷やしたトマトやキュウリで入眠モードに。胃が空のまま眠るのも良くない。夕食を抜くと体が飢餓状態に。飢餓ストレスを感じ、脳内でオレキシンという覚醒物質が分泌。オレキシンが増えると交感神経が活発化、覚醒作用や食欲増進作用を引き起こし、睡眠も妨げられる。
  • 昼間の眠気に打ち勝ちたい▶︎パワーナップ(仮眠)は眠い午後の救世主。午後の早い時間に20分程度の仮眠をとる。12時間ごとに2時間の仮眠をとると、仮眠後のパフォーマンスが向上する立証データ。20分程度の仮眠でも効果あり。
  • まとまった睡眠時間が取れない▶︎分割睡眠が忙しい現代人を救う。分けて睡眠をとってもよいと気楽に考えて。かつては人もほかの哺乳動物と同じく、1日に何回も眠る多相性睡眠だった。
  • 不安で眠れない▶︎認知行動療法は最新の睡眠改善法。快眠を遠ざけている「認知」と「行動」を改善する。認知行動療法とは、誤った思考のクセ(認知)を修正したり、悪い生活習慣(行動)を改善したりすることで、不安な気持ちやネガティブな感情がふくらまないようにする精神療法。

 

定例街頭指導

19:00〜20:30にて行いました。81歳の地域の方が毎日25000歩あるいているという驚愕の習慣をお聞きし感銘を受けました。人生の先輩方はやはりすごいですね!

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駅ナカのコンビニが2/28をもち閉店していました。非常に残念ですが、今日歩いたからこそ知った出来事の一つでした。

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読了「一人称単数」村上春樹

どんな本

人生にあるいくつかの大事な分岐点。そして私は今ここにいる。8作からなる短篇小説集。ぼくらの人生にはときとしてそういうことが持ち上がる。説明もつかないし筋も通らない、しかし心だけは深くかき乱されるような出来事が。(「クリーム」より)「一人称単数」の世界にようこそ。

 

感想

何だろう、読んだ面白さのベクトルが明らかに他の作家さんのものとは一線を画す。さすがは村上春樹と唸らざるを得ない。8作の中では特に「品川猿の告白」が秀逸で、日常の中の非日常感を違和感もなく楽しむことができる。さすがは村上春樹

 

表紙

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要約・メモ

 

(石のまくらに)

「ねえ、いっちゃうときに、ひょっとしてほかの男の人の名前を呼んじゃうかもしれないけど、それはかまわない?」と彼女は尋ねた。僕らは裸で布団の中にいた。

「人をすきになるというのは、医療保険のきかない精神の病にかかったみたいなものなの」と彼女は言った。壁に書かれた文字を読み上げるような平坦な声で。

この世界で僕の存在と彼女の存在とを結びつけているものんなんて、実際には何ひとつないというのに。たとえどこかの通りですれ違ったとしても、あるいは食堂のテーブルで隣り合わせたとしても、互いの顔を認める可能性なんてまったくないというのに。僕らは二本の線が交わり合うように、ある地点でいっときの出会いを持ち、そのまま離れていったのだ。

 

(クリーム)

フランス語に「クレム・ド・ラ・クレム」という表現があるが、知っているか?クリームの中のクリーム、とびっきり最良のものという意味や。人生のいちばん大事なエッセンスーそれが「クレム・ド・ラ・クレム」なんや。わかるか?

きみの頭はな、むずかしいことを考えるためにある。わからんことをわかるようにするためにある。それがそのまま人生のクリームになるんや。それ以外はな、みんなしょうもないつまらんことばっかりや。白髪の老人はそう言った。秋の終わりの曇った日曜日の午後、神戸の山の上で。ぼくはそのとき小さな赤い花束を手にしていた。そして今でもまだ、何かあるたびにぼくはその特別な円について、あるいはしょうもないつまらんことについて、そしてまた自分の中にあるはずの特別なクリームについて思いを巡らせ続けているのだ。

 

チャーリー・パーカー・プレイズ・ボサノヴァ

チャーリー・パーカーアントニオ・カルロス・ジョビン、いったいどこの誰に、そのような並外れた顔合わせを予測できただろう?ギターはジミー・レイニー、ピアノはジョビン、ベースはジミー・ギャリソン、ドラムズロイ・ヘインズ。名前を目にするだけで胸躍る、魅力的なリズム・セクションではないか。そしてもちろアルト・サックスはチャーリー・バード・パーカー。曲目を書こう。

A面

(1)コルコヴァド

(2)ワンス・アイ・ラヴド

(3)ジャスト・フレンド

(4)バイバイ・ブルーズ

B面

(1)アウト・オブ・ノーホエア

(2)ハウ・インセンシティヴ

(3)ワンス・アゲイン

(4)ジンジ

 

(ウィズ・ザ・ビートルズ With the Beatles

ポップ・ソングがいちばん深く、じわじわと自然に心に染みこむ時代が、その人の人生で最も幸福な時期だと主張する人もいる。たしかにそうかもしれない。あるいはそうではないかもしれない。ポップ・ソングは結局のところ、ただのポップ・ソングでしかないのかもしれない。そして僕らの人生なんて結局のところ、ただの粉飾された消耗品に過ぎないのかもしれない。

顔を合わせるたびに彼女は、いつも奇妙に感情を欠いた目でー冷蔵庫の奥に長いあいだ放置されていた魚の干物がまだ食べられるかどうかを精査するような目でー僕を見た。そしてその目つきは僕をいつも、何かしらやましい気持ちにさせた。

そこには何かをー僕らが生きていくという行為に含まれた意味らしきものをー示唆するものがあった。でもそれは結局のところ、偶然によってたまたま実現されたただの示唆に過ぎない。それを越えて我々二人を有機的に結び合わせるような要素は、そこにはなかった。

 

(「ヤクルト・スワローズ詩集」)

僕はヤクルトスワローズのファンだ。熱狂的・献身的なファンとまでは言えないけれど、まずまず忠実なファンと言っていいだろう。

そう、人生は勝つことより、負けることの方が数多いのだ。そして人生の本当の知恵は「どのように相手に勝つか」よりはむしろ「どのようにうまく負けるか」というところから育っていく。

僕も小説を書いていて、彼と同じような気持ちを味わうことがしばしばある。そして世界中の人々に向かって、片端から謝りたくなってしまう。「すみません、あの、これ黒ビールなんですが」と。

 

(謝肉祭(Carnaval))

F*はある種、特別な吸引力のようなものを持ち合わせていた。そしてそこにはー彼女の特異なまでの容貌にはー何かしら人の心に食い込んでくる力があった。それはまた彼女に対する僕の好奇心をかき立てた力でもあった。そして彼女のそのような特殊な吸引力と、若い夫のモデル並みに端正なルックスがひとつに組み合わされれば、あるいはそこで多くのことが可能になるかもしれない。人々はそのような合成物に抗いがたく引き寄せられていくかもしれない。

それらの記憶はあるとき、おそらくは遠く長い通路を抜けて、僕のもとを訪れる。そして僕の心を不思議なほどの強さで揺さぶることになる。森の木の葉を巻き上げ、薄の野原を一様にひれ伏させ、家々の扉を激しく叩いてまわる、秋の終わりの夜の風のように。

 

品川猿の告白)

僕がその年老いた猿に出会ったのは、群馬県M*温泉の小さな旅館だった。五年ばかり前のことだ。鄙びた、というか老朽化してほとんど傾きかけたその旅館に宿泊したのは、たまたまの成り行きによるものだった。

猿がガラス戸をがらがらと横に開けて風呂場に入ってきたのは、僕が三度目に湯につかっているときだった。その猿は低い声で「失礼します」と言って入ってきた。それが猿であることに気づくまでにしばらく時間がかかった。

「背中をお流ししましょうか?」と猿はやはり低い声で僕に尋ねた。「ありがとう」と僕は言った。

「たぶん信じていただけないだろうと思うのですが、あるときから、私は好きになった女性の名前を盗むようになったのです」「名前を盗む?」

 

(一人称単数)

ときどき、とくにそんな必要もないのに、自ら進んでスーツを着てネクタイを結んでしまうことがある。なんとなくそれらの衣服に対して「申し訳ない」という気持ちが湧いてきて、試しにちょっと着てみる。で、実際にそういう格好をしてみると、せっかくこうしてスーツを着たんだから、すぐに脱いでしまうのもつまらないし、この格好で少し外に出てみようかという気持ちになる。

何をするともなく部屋をうろうろしているうちに、そうだ、たまにはスーツでも着てみようかとおいう気持ちになった。数年前に買ったポール・スミスのダークブルーのスーツをベッドの上に広げ、それに合わせてネクタイとシャツを選んだ。

そこには微妙なずれの意識があった。自分というコンテントが、今ある容れ物にうまく合っていない、あるいはそこにあるべき整合性が、どこかの時点で損なわれてしまったという感覚だ。ときどきそういうことがある。

そして私は今ここにいる。ここにこうして、一人称単数の私として存在する。もしひとつでも違う方向を選んでいたら、この私はたぶんここにいなかったはずだ。でもこの鏡に映っているのはいったい誰なのだろう。