どんな本
「本当の友だちだと思ってたのに」「ただの知り合いです」「恋人と友人って何が違うの?」「親子はこうでなければならない」……身近な関係に悩むのはなぜ? 家族、恋人、友人――いちばんすぐそばにあり、実はいちばんつかみどころのない「身近な関係」。切り捨てることも、手放しに肯定することも難しいその関係は私たちをいつだって悩ませる……。人と人のつながりを一から捉えなおすことで、息苦しさとさみしさの狭間に立ち位置を見つける本。
感想
大学の講義という感じの文体がとても良い。学生時代を思い出した。人間関係というあえて言葉で言い表しにくいものを言葉にし体系化していく、著者の優れた思考力が感じ取れた。デューク風に感想を一言で。人間って面白っ!!
表紙
要約・メモ
(まえがき)
- 人間一人ひとりを取り出すと「個人」、でそういうバラバラな個人が集まっているのが「社会」。そして、その中間とでも言えばいいか、社会でもない、個人でもないという、いわば第三の領域がある。家族、恋人、友人など、そういう身近な関係。これがこの本のテーマ。
(序章 まえがき その二)
- 現代の日本の大きな問題は少子化。少なくともその一つは、親子や夫婦その他、つまり身近な関係をどう捉えたらいいのか、という点にある。
- 我々の生活のかなりの部分は身近な関係でできている。それなのにそれについてあまり考えていない。
- どうも社会は発展するに従って、身近な関係を縮小する方向へ進んできたようにみえる。
- かつては家庭の中でまかなっていたものを現代になるにつれ社会に外注するように。
- 結果、現代は昔に比べてそうとう自由になり、余裕が出来た。
- 問題:身近な関係は必要か?
(第1章 身近な関係とはどんなものか)
①人間の三つのあり方
- この本で扱う範囲、ここで考える身近な人間関係、三本立て。
- まず個人というのが単位、その個人と別な個人とが関係を作る。
- 作り方に二種類あって、一つは身近な関係、もう一つが身近でない関係(社会的な関係)。
②社会と個人のあいだ
- 個人と集団、集団は社会とは全然違う。
- 会社をはじめとした集団も実は個人と社会の中間。広い意味での身近な関係に入る。
③身近な関係の特徴(相互性と持続性)
- 一方的に知っている場合は身近な関係ではない。お互いに知っているが基本。
- お金でやり取りする他人の関係が社会。それに対して、長く続く関係が身近な関係。
- 身近な関係は、自分=個人の中にだけあるような一方的なものではない、相互的なもの。さらにお互いにという一定の時間続くもの、持続的なもの。
(第2章 身近な関係はどんなものではないか)
①感情や気持ちではなく
- 感情だけで身近な関係が捉えられるかと言えば、必ずしもそうではない。
- もし「愛とは感情である」と考えたとすると、ストーカーの歪んだ愛、単なる一方的な愛情も愛になるし、被害者の関係も身近な関係に入れなくてはならない。
- むしろ大事なのは相互的な関係。
②制度や仕組みでもなく
- 契約というのは、お互いに他人で相手のことが完全に信用できないからこそ、社会的な関係の中だから必要になるもの。
- 契約をはじめとする手続きや仕組み、制度も、身近な関係がどう成り立っているかを説明することはできない。
③距離でもなく
- 社会の中では人びとは基本、他人同士。お互いにぶつからないように気をつけなければいけない。そのベースになるのが「離れる」こと。
- そうすると問題は「近いか遠いか」ということになる?
- 距離は測れるもの。量、客観的なもの。技術により操作できる。
- 人との距離とは言うけど、実際にはきっちり計れるような距離とは違う。
④種類も超えて
- 血のつながりで親子になっている場合は多い、しかし血のつながり=親子とはとうてい言えない。
- 町内会を取っても、ここは血縁が強いとかこの地方では地縁が強いとか、その基盤を一つひとつ確定していくのも難しい。
- 私がこの本を「友情について」「恋愛論」といったタイトルにしなかった理由もここにある。
- 「私と彼はいったい友達なんだろうか」→「はいそうです」というようなものではない。
- 友達、友人、恋人、パートナーという言葉は役に立たない。だから取り除いた方がいい。
- 本人達の関係を表すものではなく、本人達の関係を外から見て、他の人たちが付けた名前ではないか。だから役に立たない。
- そうではなく、身近な関係を丸ごと、一網打尽にできるような整理の仕方を考えたい。距離(量)でも種類(質)でもなく関係の基盤、それぞれの関係がどのように成り立っているかという関係の基盤、そうしたものを考えたい。
- いわゆる「結婚」「夫婦」というのは、身近な関係であると同時に、それを社会的に認められるようにしたもの。だからここには、身近な関係と社会的な関係が重なって表れてきている。
(第3章 タテとヨコ)
①タテかヨコか
- 抽象的に考える=具体的な細かいところを取り除いて、ものすごくざっくり整理するということ。
- 町内会長同士はヨコ並びなんだけど、中に自治連合会の会長さんがいて、連合会長の上にも人がいて、区単位とか市単位とか都道府県単位とか、いわばタテに階段状になっている。
- 町内会には身近な人間関係の基本がすごくよく出ている。
- ルースベネディクト、菊と刀。欧米は罪の文化、日本は恥の文化。
- キリスト教下では神様という上位の存在で私たち人間を下の者を見ている。タテの関係。
- 日本にはそういう宗教がなく、人々の間での水平な関係が強く働き、恥ずかしいことをしないようにする、ヨコの関係。
- 身近な関係はどのようにできているか、それによりどんな関係が区別できるか。それはタテとヨコ。
- 例えば、連れ合いと一緒に暮らす、ヨコの関係。
- 私と学生さんの関係は、上下関係というタテの関係。
②タテとヨコの違い
- タテとヨコとは、つまり対等と対等でないのとだ、というのは確かにそうだが、まだそれでけではうまく使えない。
- 一般的に考えて、人間に上下関係なんかない方、ヨコの方がいい。しかし、もしタテの関係になっているのだったら、何かの必要性があるのではないか。
- 必要かそうでないか。タテの関係は必要と関わりがある。
③「タテとヨコ」の使い方
- ある意味抽象的だからこそ役立つ。
(第4章 共同と相補)
①違うと同じ
- そもそも関係というのは、同じか、違うかという二種類しかない。
- 人間はみな同じ、同等と見なす、これが社会の基盤。全員共通に権利を持つ。基本的人権というやつ。これは社会という観点からの捉え方。
- 個人一人ひとりに焦点を合わせるてみると全然違う。性格や考え、生まれ育ちなど。
- 人間には二つの側面、同じと違う。全ての人が同じ=社会、一人ひとりそれぞれ違う=個人。
- 第三の場合、全ての人ではない、何人かの人は共通だということ。それが人々を結びつける絆となって、身近な関係を作る。
②共同性
- 身近な関係にもいろいろある。だけどそれらはみな、「何かの共通点でつながっている、同じところがあって仲間になっている」というもの。
③相補性
- 重なり合う関係。同郷とサッカー好き、という二つの同じが重なっていて、だから親しくしている。
- 同じ点、共通点がいくつか重なり合って、だから絆が強くなったりする。
- 違うからこそ惹かれ合う。男女の恋愛。お互いに補い合う「相補」。違うからこそ結びつく関係=相補性と呼びましょう。
④共同性と相補性の違い
- 私はサッカーが好きで、上田君もサッカーが好き。内田君も実はサッカーが好きだった。
- それぞれ違いがあっても、サッカー好きという点では仲間だよね、共同性は非常に広がりを持つ。
- それに対し相補性は、むしろ閉じた関係を作りやすい、集中しやすい。友達はたくさんだけど、恋人は一人。
- 広がりのある共同性はより社会に近く、閉じる傾向のある相補性はより個人的なものに見える。
- 自分と相補的な関係になれる人はとても貴重。相補性はその分だけ絆が強くなる。
(第5章 パターンをかけあわせる)
①親子の問題
- 親子関係は相補型に分類できる。親と子という違うもの同士が結びついている。
- 親子は同じ家族の一員なのだから共同性だと思う、という人もいる。しかし、全ての親子に血のつながりがあるわけではない。
- 同じ家族の一員だから親子ではなく、親子であるから同じ家族の一員である。
- 親子関係が相補型というのがいまいち腑に落ちない別の理由。
- 恋人、夫婦は基本的に相補型ではあっても、相補性は恋愛や夫婦関係とは違う。親友も含め違っているからこそ結びつく、のが相補性。こっちが相補性の本体。親子も相補性の一種。
- 同じ相補性でも、細かく見れば、夫婦や恋人のようなタイプと親子のようなタイプの二種類がある。
- 師匠と弟子、先生と生徒、これらも違ったものの結びつきだから相補型。だがそれと同時に、夫婦、恋人、親友のようなタイプとは違う。
- 「親子、師弟」型は上下関係。「夫婦、恋人、親友」型は上下ではなく対等。タテとヨコ。
- 身近な関係は三種に分類:1親子、師弟関係など(タテの相補性)、2夫婦、恋人、親友(ヨコの相補性)、3友達、サークルなど(共同性)。
②2×2=4
- 第四のパターン。例1「部活の先輩と後輩」、タテの共同性に当てはまる。例2「会社の上司と部下」、タテの関係の仲間。一緒にお金儲けをする共通の目的。
③四つのパターンの使い方
- ヨコの相補性①夫婦、恋人、親友、タテの相補性②親子、師弟関係、タテの共同性③先輩後輩、上司部下、ヨコの共同性④級友、サークル。
(第6章 身近な関係のウチとソト)
①社会や個人をどう考えるか
- 人間のあり方には、身近な関係のほかに、社会と個人というのがあった。
- そうすると、四つのパターンと社会との関係、四つのパターンとの個人の関係、というように八つの場合を考える必要。
- タテの共同性と社会。何か共通の目的のためにのタテ関係。例えば会社。
- 会社の中の上司と部下の関係は身近な関係の代表。一方、会社と社員が雇用契約、ここに社会的な関係。会社での関係は身近な関係の一種ではあるが、社会に近いと言える。
- ヨコの相補性と社会。身近な関係の基本は一方的ではなくお互いに、相互性。だが身近でなくてもあり得る。売買はお金を払う、受け取るで相互的関係。
- 相互性は身近なものではなかった。つまり経済的な活動は社会的な行い。
②兄弟の問題、夫婦の問題
- 夫と妻の関係があり、親子関係がある。この親子関係は、母と子、父と子、の二つに分けられる。
- これを言い表すと、夫と妻の関係は基本的にヨコの相補性、父と子、母と子の関係はタテの相補性、だからこの三人家族はヨコの相補性と二つのタテの相補性からなる。
- では子どもが二人いる場合、兄弟はどの関係パターンか。
- 雑に「夫婦」と呼ばれるこの二人の関係も、クローズアップして見ていくと、その中にヨコの共同性、ヨコの相補性、社会的な関係と、幾つもの関係が織り込まれている。
- 関係というのは目に見えるものじゃないから、正確に捉えるのは難しい。でも、だからこそ身近な関係について考えていって、名前をつけて、それで摑まえるしかない。ここで書いていることが万全とは言わない。しかし身近な関係をより正確に理解する試みは必要だし、少しそれができているのでは。
③まえがきの問いに答える
- 私と方便さんの関係はヨコの相補性だった。
- 図書館の二人、吉田君と小島さん。ヨコの相補性。図書館の係の人と吉田君、小島さんはお互いに知らない同士、社会的な関係。そこに私たちは恋人ですという二人だけの関係を持ち出しても意味がない。二人はヨコの相補性という理解は、当人たち二人にとっては大事だが、図書館の人にとっては別にどうでもいい。二人の関係性を第三者にも分かるように、社会的な観点からみた場合にどう見えるのかを説明しなければならない。そうすると便利な言葉は「婚約者です」あたりか。
(第7章 あらためて、身近な関係は必要か)
①身近な関係は必要か?
- 身近な関係として一括りにして、「必要だ・必要ない」と単純に答えるのでなく、四つの関係パターンを踏まえ、どのパターンが必要で、どのパターンが必ずしも必要でないのかをはっきりさせていけばいい。
- 親子関係のようなタテの相補性はどうしったって必要。そもそも我々はどこかから生まれないといけないし、育てられなければならない。
- 生まれる、育つという段階では、大人がいなくてはならない。だから身近な関係は必要ということになる。
- それに対して上司と部下のようなタテの共同性は、生きるのにどうしても必要というよりは、何か限定された目的のために必要。
- 友達なんかのヨコの共同性は、生活する、何かの活動する、事業を運営するのに必要とはちょっと違う。
- 同じく、ヨコの相補性も、恋人や配偶者がいない人も多いわけで、必ずしも必要ではない。
②どういう意味で必要か?
- 生まれ、育ち、生きるためにはタテの相補性と社会とが全ての人にとって必要。あとは全員ではないけどタテの共同性は目的によって必要ということがわかった。そして、ヨコの共同性やヨコの相補性は、人によって必要になり、また可能性を考えると、なおさら必要であることがわかった。
③必要かどうかという問題のその先
- 私たちにとって「幸せ」にはどうも二種類あるらしい。「自分の好きなことができる」こと、「身近な関係の中で生きる」こと。
- 身近な関係は必要か、という問題を考えて行って、やっぱり必要だということを知った。しかしさらに今わかったことは、「身近な関係には、必要というより、我々の幸せに関わるものがある」ということ。
- 私たちは必要だけで生きているわけではない、必要のためだけに生きているのではない。
(結びに代えて・人は変わる、関係も変わる)
- この本では関係を、関係のあり方の基本的な形、パターンという観点から見てきた。だが、人間の関係は静止したものではなく、大きく変化するものだと考えるべき。さらに変化するとともに、その関係を作っている人間の方も変化してくる。おそらく変化には長い時間がかかる。
- 私たち人間のさまざまな関係の中には、関係が変化したり、我々自身が変化したり「歴史」みたいなものが織り込まれている。
- 我々は一人ひとりの人を「かけがえのない存在」と言ったりする。実は、それはその人がかけがえないということとともに、その人が他の人と作り出す関係、その歴史こそがかけがえのないものなのかもしれない。
- 多くの本には「まずは個人が確立していて、そういう自立した個人がお互いに関係を作るのが良い」と書いてある。それは理想だが、最初からそれができるとは限らない。人間が最初から完全に自立した個人である、というのは非現実的ではないか。
- ヨコの共同性やヨコの相補性、そして何よりタテの相補性などを通して、人間は人間として成り立ってくる。人間が関係を作るのだが、実はそれは関係が人間を作るということと同時進行ではないだろうか。だから人間は面白いと思う。
(あとがき)
- 「子どもを産む、育てる」のところでも出てきた通り、この本では「人と人との関係は、物との関係とは違う」ということが繰り返された。
- 実際にどう違うのか。それは「人は生きている」ということ。逆に言えば、物は生きていない。
- だから物は、自分が作ったり、自分のために利用したり、壊したりもできる。
- だけど人は生きているので、自分の思い通りにはならない。そういう思い通りにならないのが人で、そういう人との関係がとても大事。
- 人であるということは、自分とは違うということ。人を自分のものにすることはできない。そこに成り立つのは、操作、所有ではなく、関係ということ。
- だから人と人との関係は難しい。身近な関係というのはそういういうもの、自分の思い通りにならないもの。
- 人との関係は「私」にとって意味がある。「私」は関係を作ったり利用したりするのではなく、そういう不思議な関係を生き、あるいはそうした関係に作られる。
- 私はこの本を読み返しながら、そうしたことを読み取ったり考えたりしました。